カンタベリー・ロックとは何か、ワイルド・フラワーズから現代へ続く系譜
2026.10.29
土地の名前で呼ばれた「人のつながり」
カンタベリー・シーン(カンタベリー・ロック)は、1960年代後半から1970年代初めにかけて、イングランド南東部ケント州の大聖堂の町カンタベリーを中心に形成された音楽シーン。プログレッシブ・ロックの一派に数えられる。
源流の一つは、地元のサイモン・ラングトン・グラマー・スクール。ワイルド・フラワーズ、キャラヴァン、ソフト・マシーンの創設メンバーが、この学校の出身者である。同じ町の同じ学校で知り合った若者たちが、その後バンドを組んでは解散し、別のバンドで再び合流する。その人脈のつながり全体が、のちに「カンタベリー・シーン」と呼ばれるようになった。
ただし、この呼び名には当事者からの異論が多い。キーボード奏者のデイヴ・スチュワートは、自分を含めシーンに数えられるミュージシャンの多くはカンタベリーという土地と何の関係もないとして、この名前に反対した。ヒュー・ホッパーは「かなり人工的なレッテルで、ジャーナリストが作ったもの」と述べ、ロバート・ワイアットもこの考え方を嫌っていたと語っている。実際、カンタベリー周辺の出身といえるのはキャラヴァンとソフト・マシーンくらいとされる。地名を冠しながら、実態は土地ではなく人のつながりを指す言葉である。
源流:デヴィッド・アレンとワイルド・フラワーズ
始まりは1960年代初め。オーストラリア出身のデヴィッド・アレン(Daevid Allen)が、カンタベリー近郊、ドーヴァーに近いリドゥンにあったロバート・ワイアットの家に下宿していた。当時のワイアットは16歳前後。アレンはワイアットを含むフリー・ジャズのトリオを組んでおり、ロックより先にジャズの即興がこの人脈の出発点にあった。
1964年、ワイアット、ヒュー・ホッパー、ブライアン・ホッパーらがワイルド・フラワーズを結成。初ライブは1965年1月15日、海辺の町ウィットスタブルのパブ「ベア・アンド・キー」だった。バンド名の「Wilde」の「e」はオスカー・ワイルドにちなむもので、ワイアットによれば、ビートニクだった自分たちが詩に夢中だったためだという。
ワイルド・フラワーズは1969年に解散。しかしそれ以前から、元メンバーたちはソフト・マシーン、キャラヴァン、ゴング、ハットフィールド・アンド・ザ・ノース、エッグ、ナショナル・ヘルスなどに散らばり、メンバーを入れ替えながら活動を続けていく。一つのバンドがシーン全体の苗床になった形である。
ソフト・マシーン:ポップからジャズへ
ソフト・マシーンの結成は1966年半ば。メンバーはマイク・ラトリッジ、ロバート・ワイアット、ケヴィン・エアーズ、デヴィッド・アレン、ラリー・ノーリンだった。初期はサイケデリックなポップ/ロック寄りのバンドである。
転機は1968年のエアーズ脱退。代わりにベースで加入したのは、元ローディーのヒュー・ホッパーだった。ホッパーの加入以降、バンドはより実験的でジャズ寄りの方向に進み、1970年の2枚組アルバム『Third』に行き着く。オリジナルのLPは、各面がそれぞれ1曲ずつの長尺曲という構成。この時期のメンバーはワイアット、ホッパー、ラトリッジ、サックスのエルトン・ディーンで、歌もののロックバンドから、ジャズ・ロックのグループへと性格が変わった。
ワイアットは1971年に脱退。ソフト・マシーンはその後もメンバーを替えながら、ジャズ寄りの路線を続けていく。
キャラヴァン:歌心のあるもう一つの柱
キャラヴァンは1968年1月、パイ・ヘイスティングス、リチャード・シンクレア、デイヴ・シンクレア、リチャード・コフランの4人で結成。4人ともワイルド・フラワーズの在籍経験者である。ワイルド・フラワーズの半分がキャラヴァンになり、残りがソフト・マシーンになったとも言われる。
代表作は1971年のアルバム『In the Land of Grey and Pink』(デッカ傘下)。バンドで最も売れたアルバムでありながら、英国のアルバム・チャートには入らなかった。ジャズの方向に進んだソフト・マシーンに対し、キャラヴァンは歌を中心に置いた、ポップ/ロック寄りの側の代表となった。
カンタベリー・サウンドの特徴
音楽的には、ジャズ、ロック、サイケデリアを混ぜた、即興を重視するゆるやかなスタイル。共通点として挙げられるのは、風変わりでユーモアのある歌詞、難解な歌詞、ジャズ由来の即興である。プログレッシブ・ロックの中でも、自分たちを深刻に捉えすぎない陽気な変種と評される。
最もはっきりした特徴は、ファズ(歪み)をかけたオルガンの音。ソフト・マシーンのマイク・ラトリッジが始め、キャラヴァンのデイヴ・シンクレアと、エッグなどで活動したデイヴ・スチュワートが完成させた。2人とも主にハモンドA100にファズ・ボックスをつないでソロを弾いている。ヒュー・ホッパーのファズ・ベースも、なめらかさと鋭さを併せ持つ音としてシーンの特徴に数えられる。
ラトリッジの作曲は、実験的なロックとモード・ジャズを組み合わせたもの。ゴングのサックス奏者ディディエ・マレルブは、コード進行(特に短2度の和音)と、ジャズとは異なる即興のスタイルを特徴に挙げている。
一方で、シーン内の音楽性の幅は広い。初期のソフト・マシーンや多くのキャラヴァンの曲のようなポップ/ロック寄りのものから、初期ナショナル・ヘルスのような前衛的な作曲作品、後期ソフト・マシーンのような即興ジャズまで。一つの音楽様式というより、共通の人脈と共通の音色を持つ幅広い集まりといえる。
1970年代:分裂と合流で広がる人脈
ゴングは、デヴィッド・アレンが1967年にフランスで結成したバンド。ソフト・マシーンの創設メンバーが、英国の外でもう一つの拠点を作った形である。
ソフト・マシーンを抜けたワイアットは、1971年10月にマッチング・モウルを結成した。バンド名は、「ソフト・マシーン」のフランス語訳「Machine Molle」をもじったもの。古巣の名前をしゃれにしたバンド名にも、このシーンのユーモアが表れている。
1973年6月1日の夜、ワイアットは建物の窓から転落して脊椎を損傷し、下半身不随となった。それでも、事故の前にヴェネツィアで大半の曲を書いていたアルバム『Rock Bottom』を、事故の数か月後に録音。プロデュースはピンク・フロイドのニック・メイスンで、1974年7月26日にヴァージンから発表された。ワイアットは、ロックとジャズの悪いところを取り、だらだらとした演奏に陥りがちだった従来のジャズ・フュージョンに不満を持っていたという。
人脈の交差を最もよく表しているのが、ハットフィールド・アンド・ザ・ノース。活動期間は1972年10月から1975年6月で、メンバーはフィル・ミラー(ギター、マッチング・モウル出身)、デイヴ・スチュワート(キーボード、エッグ出身)、ピップ・パイル(ドラム、ゴング出身)、リチャード・シンクレア(ベースとボーカル、キャラヴァン出身)。シーンの主要バンドから1人ずつが集まった構成である。
ハットフィールドの解散後、スチュワートはギルガメッシュのキーボード奏者アラン・ゴーウェンとナショナル・ヘルスを結成した。原型になったのは、ハットフィールドとギルガメッシュが一緒に行った「ダブル・カルテット」の演奏。フィル・ミラーが全期間在籍し、ピップ・パイルも1977年に加わった。1978年のデビュー作は、組曲形式の長い4曲で構成されたジャズ・ロックである。
現在まで続く系譜
シーンを作った人たちの多くは、すでに亡くなっている。ヒュー・ホッパーは2009年6月7日に白血病で死去。ケヴィン・エアーズは2013年2月18日に68歳で亡くなり、デヴィッド・アレンも2015年に死去した。2025年2月には、ソフト・マシーンの最長在籍メンバーだったマイク・ラトリッジが、短い闘病の後に81歳で亡くなったと報じられた。
それでもバンドは続いている。キャラヴァンは2021年、2013年の『Paradise Filter』以来となるアルバム『It's None of Your Business』を発表。新曲9曲とインストゥルメンタル1曲を収めた。
ソフト・マシーンは、ギターのジョン・エサリッジらによる編成で活動を継続し、2023年に『Other Doors』を発表。同じ2023年にドラムのジョン・マーシャルが亡くなった後はアサフ・シルキスが加わり、2026年に13作目のスタジオ・アルバム『Thirteen』を発表した。メンバーはエサリッジ、セオ・トラヴィス、フレッド・ベイカー、シルキス。収録曲「Daevid's Special Cuppa」は、デヴィッド・アレンが生前に録音したギターを土台に作られている。創設メンバーの演奏が、半世紀以上後の作品に組み込まれた形である。
ゴングも、アレンの死後に彼の同意のもとで、カヴス・トラビを中心とする編成で活動を続けている。2023年11月3日には16作目のスタジオ・アルバム『Unending Ascending』を発表。作詞はトラビが担当した。
新しい世代では、2003年にカンタベリーで結成されたシド・アーサーが、21世紀のカンタベリー・シーンの後継者とみなされている。メンバーはリアムとジョエルのマギル兄弟、ドラムのフレッド・ロザー、ヴァイオリンのレイヴン・ブッシュ。2013年12月に再始動したハーヴェスト・レーベルと契約し、2014年に『Sound Mirror』、2016年10月21日に『Apricity』を発表した。批評では、往年のカンタベリー・シーンの風変わりさに、同時代のサイケデリック・バンドのグルーヴを加えた音と評されている。
当事者たちが「ジャーナリストが作ったレッテル」と嫌った呼び名は、ワイルド・フラワーズの結成から60年以上たった今も、バンド名の継承と新しい世代の登場によって使われ続けている。